2009年12月20日日曜日

リアリティの違い

091216 ARCHITECT 2.0 グーグル的建築家像をめざして @千葉大学西千葉キャンパス

松戸から寒空の中、久々に西千葉へ。僕は出かける時に都心から離れると何しに来たんだか分からなくなるんだが、着いた時点で暗くなってて、さむいし、もう、これだから西千葉は。

藤村さんのレクチャーを聞くのはこれで3回目。
これまで僕が聞いた中で一番具体的で分かり易かった。
模型の羅列を見て、「前と後で何が条件で何を変えたの?」みたいに感じた事が多かったのだが、いくつか紹介してもらって、納得がいきました。
Building Kの「シンプルな設備系統→構造→意匠」という建築の構成(?)の話が興味深かった。全てにおいて合理的なんだなー。
また、プレゼンの構成が「超線形設計プロセス→設計事例→教育での方法論の実践→よくある質問→批判的工学主義」という流れになっていた。この構成は初めてで、最後の批判的工学主義のところでグッとくるものがありました。

■今回は質疑応答のやりとりが興味深かった。
プレゼンで「よくある質問」があったが、やっぱり質疑応答で質問された。
なんでだろうなー、と思ったら、「クリエイティブ系建築学生のリアリティ」と「設計の現場のリアリティ」が違うんではないだろうか。
僕は修士生になって、LDSE2008や研究室のプロジェクトでちょっとした現場に触れる機会があったから、後者が分かり、藤村さんの主張に共感できるんだと思う。就職した友達に藤村さんについて紹介したら、学生よりも食いつきが良かったし。

例えば、藤村さんは超線形設計プロセス論では「空間形態の意味が濃密になる」という旨のことをおっしゃっていたが、多分この「意味」という言葉の『意味』が学生と実務者で違うんだろう。大概の学生は空間形態にぽわーんとした抽象的な意味を与えてる。(レモン展とか見には行っているが、ぽわーんとし過ぎてよく覚えてない。というか、建築の展示会を見に行って形態の説明に納得した記憶があんまりない。一応、造園デザインの勉強はちょっとしたんですけど…。)Building Kでは「設備系統を1つのタワーにまとめること」には「管理が容易になる」という意味がある。でもこの意味には管理が大変でコストがかかることをいつしか感じた事がある人…つまり、実務で現場を知ってる人でしかリアリティを感じないのだ、きっと。
金かかるんすよ、管理って。建物って作った後にかかるコストは作るコストのウン倍とか聞きました、就活で。数字は覚えてないけど、ビビりました。>建築学生。
「条件の選択は恣意的ですよね?」みたいな質問がされるのも、リアリティ違いの問題だろう。選択された条件は恣意的というかむしろ実務上必然的だ。

この例はあくまでも手法の「効果」でしかない。が、そこにリアリティを感じれるか否かで、手法の持つクリエイティビティの「意味」も、変わってくると思う。

■この建築クラスタの手法論の議論はラ系にはどう関係するのだろう、なんて考えるのだが、設計手法としては有益であるけど、あんま現場では関係ないかなーとか、思ったりした。
建築クラスタを襲う工学主義的状況は、あまりにラ系の状況とは違う気がするから。自動生成する高層建築の足元の公開空地はラ系のアトリエ派が設計していたりします。e,g,品川セントラルガーデン。「高層建築はコピペで面白くない問題」は「金太郎飴的都市公園大量発生」と表立つ現象としては似ているけど、後者は制度主義的状況によって生み出されてるし。

もしくは、ただ単に僕が設計実務の現場を知らないからかな。
就職した友人にちょこちょこ聞いてみようと思う。

■何で超線形設計プロセス論を多くの学生が否定的に感じ取るのか。
それは超線形設計プロセス論の三原則がいずれも現在の学生のやり方を否定しているからじゃないか。その上「批判的工学主義」なんて理屈では納得せざるを得ないから、余計に悔しくて、否定的に捉えそうw議論を巻き起こすために「あえて」の否定表現かもしれないけど。
三原則を肯定的に表現しようとすると冗長になるし、確かに表現として歯切れが良いのは事実。
だから、肯定的に捉えた時にどう表現するか、どう説明するかが問題になるのでは。>手法派のみなさん
今回のレクチャーでも「ジャンプしても良い、ただし、論理的に言葉で説明できるようにしろ」という言葉を聞いて受け入れられた学生も多かったんじゃないかなぁ。

■いやしかし、大変に盛り上がったレクチャーだった。
立ち見も出るぐらいだったし、寝てる学生も少なかった。僕の横の人は寝てたけどw
暖房が効きすぎてたと感じたのは、エアコンのせいではなかったんだろう。お疲れ様でした>運営側の学生のみなさま。
帰路、毎度睡魔に襲われる新京成で、twitterのTL上の寮ネタで現実に戻されそうになっても、ずっと思考がオーバーヒートしていたのでした。

2009年12月10日木曜日

横浜「ラ系」宣言

091209「横浜『ラ系』宣言」に行ってきた@馬車道
togetterまとめ
実況していたerrieさん、お疲れ様でした。
三谷先生のお話では、「プライベート性の作り方」と「構造+設備+庭」が、
石川さんのお話では、「地形の資源性」の話が興味深かった。

どちらかと言うと石川さんの話はリサーチ寄りで、三谷先生はデザイン寄りだったのかな。

お二人のレクチャー後、対談。
横浜はすぐ裏に多摩丘陵が迫っている街である。斜面地の造成の話題で総裁こと大山さん
「ぼく、擁壁好きだよ。擁壁が面白いと思えないの想像力の問題では?」
という趣旨の発言からラ系の僕としてはヒートアップ。

■この手の話に、聞き手は「条件分け」をして理解する必要があると思う。
確かに巨大擁壁は「自然環境保全」とか「予算削減」が謳われる現在、あんまり好ましくない方法だと思う。だから、「今後」の造成では避けるべき方法だろう。(石川さんが大山さんのようなサブカル的評価・態度が政治的に利用される事に注意すべしと言っていたのはこういうことだろう。たぶん。)
でも、今ある巨大擁壁はどうするの?っていう問題もある。
そこに自らが「鑑賞者」として立場をとるのか、それとも「設計者」としての立場をとるのか、その立場を考える必要がある。(他にもあるだろうけど)

■まぁあの場にいた大抵の人は後者のはず。
そこで設計者は巨大擁壁(もしくは巨大擁壁を含む一帯の環境)の何か改善しろと言われ、巨大擁壁を「面白い!」と捉えるのか、「つまらん…」と捉えるのか。その姿勢が大切で、デザインのゴールを決める。
石川さんは自身の過去のブログで言っている。
「流路をコンクリートで固められた、いわゆる3面張り護岸の神田川を見て、それを『地域から川が暴力的に疎外されている』とノートに記した時点で、そのあとの提案の射程距離は決まってしまう。」
「駐車場を『駐車場』と記述したところでフィールドワーカーとしては負けである。」
身辺メモ
もし、擁壁の修景を頼まれた設計者が「つまらん…」と捉えてしまっては、何も生み出せない。前向きじゃないし。
(別に鑑賞者だったらどう思おうがどうでも良いと思います。実は僕はまだ擁壁に開眼してないし…)

■大山さんが擁壁(と他のドボク)を、石川さんが地形を、「面白い」と感じる想像力は、その点で設計者に有用な視点を提供する。
普段意識しなかったり、むしろ望ましくないと感じる物体や空間の可能性を広げることができるのだ。
例えば実務で設計する人は「キレイに平らで、日差しや風通しがよくて、土は肥沃で、でも固くて、水はけが良くて、気候は安定して、整形で、都市基盤が整った、十分に大きい敷地」かつ「気前の良い資金に潤沢な文句を言わない施主」に出会うことなんて稀なんじゃないのかな。
もーどーしょーもない案件を任された時にこういう想像力は重要だと思うんです。「ガケンチク」はその好(?)事例なのかもしれない。ってラ系の設計者にならない僕が言うのも何ですが…。いや、どんな種類の仕事でもその可能性は高いと思う。

■個人的意見として今後は、「想像力」を育成する、共有可能な「方法」を考える必要があると考えます。
そしてそれは、大山さんの団地を撮影する際に定められたルールにヒントがあるかも、と帰りにd/sign No.17の記事を読んで思ったのでした。

2009年11月30日月曜日

091123LDSE2009

091123
LDSE2009の講評会に行ってきました。@みなとみらい駅みらいチューブ
その模様を写真で。

考えたこと①ランドスケープの人のプレゼンって前置き長いよね問題。

だから、インパクトが弱い。学部で建築を専攻していた友達に言われた。確かに。彼は大学院からラ系なので、それなりの数のプレゼンを見ての感想だったのだと思う。
公共的な空間や問題に対してデザインを提案しがちなラ系としてはしょうがないことのように感じる。さらに建築の立体的な設計に比べ、平面的な設計がインパクトの弱さを増長している。
対策として1つ考えられたのは、プロの方の「コンペで仕事を『獲り』に行くプレゼン」を見ることじゃないだろうか。
プロの方の心血を注いだ作品を見る機会は多いけど、プレゼンを見る機会ってなかなかないよな、と思った。
単純に僕がそういう機会を逃しているだけかもしれませんが…。

考えたこと②対象地の設定が難しかった?

今回のLDSE2009は例年と違ってコンペ形式だったのだけれど、その対象地が会場周辺のみなとみらいだった。
対象地の読み込みが難しかった、という話を聞いた。
みなとみらい周辺は埋立地だから、人の営みの希薄な場所である。
―――というのは、オーセンティックで純朴な土地の見方でしかない。この前の建築夜学校2009第二夜の言葉を借りれば、みなとみらいは「場所なき場所」だったのだろうな、と思った。そういう見方もあって良かったのでは。
ただ、自然再生系の提案で(プログラムの妥当性はおいておくとして)埋立地に造成を多く施すものがあったけど、ラ系的な発想で「場所なき場所」をデザインした解なのかもしれない。
といっても僕も最近になってこういう見方をできるようになったから、人に言えたもんじゃないのだけれど。

建築夜学校2009第二夜に関しては下記ブログに詳しいです。

architecture_database"建築夜学校2009 第二夜"
twitterの実況できる人ってすごいよなぁ。

考えたこと③LDSE初のコンペ形式。

ランドスケープを学ぶ少ない大学の中、有志で集まった少ないメンバーで新たなチャレンジをしたことは本当にすばらしいと思った。
去年LDSE2008の僕らのときも挙がった話であったが、諸条件から諦めた経緯がある。だからこそなおさら。
コンペ形式の効果として、対象地が共通だから講評者の議論が例年になく濃密になっており、かつ「ランドスケープとは何か?」みたいな「ラ系の自分探し」が全くなかった、と思いました。この二つのことが頭に浮かんだとき、LDSE2006の時の講評会で三谷先生がおっしゃっていた「ランドスケープが何かを問うのではなく、ランドスケープで何ができるのかを考えましょう」という言葉を思い出した。
今回培った素晴らしいノウハウをブラッシュアップして来年度の後輩に伝えていって欲しいと思いました。ま、後輩がやる気を起すかどうか別として。

本当にお疲れ様でした>実行委員会のみなさま、出展者のみなさま

さて、僕はちゃんと卒業できれば、来年からは全く違う業界の社会人として見るわけだ。これからはウザがられない程度で支えていければな、と思う。


2009年9月27日日曜日

人が自然に惹かれる理由=人が工場に萌える理由

なんじゃないか。

人は自然に癒されるという。確かに、僕も自然を前にすると、ほっとする。誰もが経験する。
僕の専攻である造園の先生方々は、人が自然に癒されることを科学的に立証しようとしている。
庭を見た人の脳波を測ったりして。
ただ、「癒し」だけがわれわれが自然に惹かれる理由なのだろうか。ドボク(工場や団地、ジャンクション、水門、鉄塔、ダムなど機能性に特化した構造物)に心惹かれる僕や造園を学ぶ友人が、一見真逆の自然にも心惹かれるのは何故か?通底するメカニズムがありそうである。

水門萌えの佐藤淳一氏は「ドボクサミット」で、ドボクに萌える人が廃墟にも萌えることの理由として、
「多くのドボク・ファンは、用途や機能、あるいは背後の物語を排除し、解体され還元された形態や物質のあらわれ、だけに注目する見方をしているのではないだろうか。」(P176)
と述べている。
つまり、ドボクや廃墟の魅力の一つは外観の「意味のなさ」ということである。

そして、外観の「意味のなさ」は自然物も同様である。
自然物には記号性があんまりつけられない。
庭園の樹木は人為的に刈られるが、石組みは文化的な背景に基づいて組まれるが、看板のように文字が書かれる事はない。(むしろ庭園の美的価値=作者のメッセージを理解するには鑑賞者に知識や教養が必要である。)
風の音や葉音、波の音は単なる音であるし、小鳥のさえずりや動物の泣き声のメッセージ性は大半の人間は理解し得ない。
まして、森林や公園の樹木の一本一本に人為的なメッセージなど付加されようがない。
そこにあるのは、自然物の「存在」だけである。鑑賞者には何も意味を訴えない。

これは鑑賞者が勝手に意味を見出す事とは違う。
逆に言うと、ドボクも自然も鑑賞者個人によって勝手に意味を見出す事がしばしばある。
例えば、首都圏外郭放水路はその柱の形態から、「地下のパルテノン神殿」と呼ばれている。
団地の大山さん鉄塔の長谷川さんは「見立て」を用いていて、その魅力を説明する。
木の枝は子供にとっては「魔法のステッキ」にも、「正義の剣」にも、「物干し竿」にもなり得る。
雲を見て動物やモノに喩えることは誰もがやったことがあるだろう。
これらは柱、団地、鉄塔、木の枝、雲の外観に意味がないからこそできるレイベリングである。
ある対象に意味を見出す度重なる行為や言説は、逆にその対象の「意味のなさ」をあぶりだしている。なんか、人生論に通じるものがある笑。

自然の「癒し性」は、「工業化の時代」に物理的非人間的環境の緩和や牧歌的風景ノスタルジーの補完の必要性があったからこそ、求められた価値であったのかもしれない。
人々に情報(=意味)を与え続ける「情報化の時代」の現代。実際にわれわれが自然に求めているのは、情報過多のカウンターとしての自然の「意味のなさ」という事はないだろうか。

工場鑑賞者が工場に萌えてるときの脳波を測っても面白いかもね。

釣竿はこのクレーンを擬態したに違いない。

090926

朝起きたら二日酔い。2つの選択肢が頭に浮かぶ。
①修論について考えるために、回復するまでひたすら休む。
②回復するまでの時間があまりに勿体無いので、修論は置いておいて、ドボク界で騒然の東京港臨海大橋のトラス桁架設を見に行く。

②ですね、明らかに。
ドボク界重鎮の方々のブログから、どデカいキリンさんが若洲に来ているとの情報をキャッチ。
若洲?どこ??って感じでしたが、「若洲キャンプ場だろう」と目星をつけ、見れるかわからないけど、とりあえず行ってみた。

行ってみたら…あった!
でかい!でかすぎる
でも、みんな釣りしてる…。何で反対側むいてるんだろう?
ただもう、理屈抜きに良いですよね。かっこいい。すごい。
ただスケールが分かりにくいよなぁ…。
28日には架設作業に入るそうです。

見に行きたいなー。ただ修論の調査が…

2009年8月11日火曜日

懐かしのヤバい景観

090809
に行ってきました。
カルカルは初めてだったのですが、お洒落でした。
そして笑いっぱなしでした。
団地萌えの大山さんと地上絵師石川さん。
いい景観とは言えないけれど、でもなんか「ぐっとくる」景観をヤバい景観(=ヤバ景)と呼び、
その寄せ集めのスライドショーを「良いよねぇ…」
と皆々楽しむもの。たぶん。
石川さんが「中防」を懐かしいと言っていてびっくり。
僕も中学時代の通学路が両側住宅用造成地で、そこを3年間歩き中防的風景を享受していたせいか、懐かしい感じがするのだ。
というか、無計画に開発された市街地に隣接する「多摩ニュータウンの外縁」育ちの僕は、団地のみならず、「ロードサイドショップと個人経営の中華料理店と水田が隣接する風景」や「住宅地の中に畑と資材置き場と鉄塔と酒屋が点在する風景」をそれこそ幼少から見ていたので、大方のヤバ景には親近感があるのは当然である、と分かった。ヤバ景情操教育世代。

ただ、ヤバ景は拾う景観の範囲が広すぎて、「ぐっとくる」感じを共有できるのか、(必要もないのに)ちょっと不安になった。団地や工場やダムといった「ドボク」は愛でる対象が限定されているから、「ぐっとくる」感じを共有し易いのではなかろうか。それこそ「水門」の佐藤さんは「ドボクサミット」で、「水門以外興味ない」って言ってるし。

ヤバ景の他にも「どこまで東京?」もあって、これも面白かった。
一般人の意識的な「東京」の範囲が「びっくりドンキー」に規定されているらしい。
あと、バーミヤンとユニクロは東京の都市インフラ化してるって。

3部構成で計4時間!かなりこゆい内容でした。
帰りにガンダムも見ました。興味ないですが、一応…。

のりピーとお塩先生の事件に考える。

一昨日の土曜日までの4日間、ウイルス性の腹ピーゴロゴロにかかり、無気力状態でテレビばかり見ていました。(腹痛って体力気力を著しく消耗しますね…今回再認識。)
まぁ、昼間と言えばワイドショーなわけで、先週のワイドショーと言えばお塩先生とのりピーは外せないわけで、暇なので思うことが膨らんでくるわけで…

で、今回の事件に思うのだが、(というか覚醒剤の事件のたびに思うのだが、)覚醒剤にフォーカスあたりすぎじゃないでしょうか。

二人にとって、覚醒剤がゴールだったのかどうかを考える必要があると思ってます。
僕はおそらく、あくまでもガス抜きのための覚醒剤であったのだと思います。
現代人は色々あります。つらさ、かなしさ、さみしさ、不安、無気力感とネガティブな感情が色々あると思います。二人も同様だと思います。
だからネガティブな感情が嫌で、
結果として覚醒剤にはまってしまったと。
覚醒剤はあくまでもネガティブな感情のガス抜きという「目的」のための「手段」だったのだと思うのです。
だから他のガス抜きの「手段」があらかじめあれば、覚醒剤に手を出さなかったのでは。手を出したとしても抜け出せたのでは。と思うのです。

「覚醒剤はダメなこと、それに手を出した二人はダメ。」まぁ確かにそうですが…
「覚醒剤にはまらないように、自分は他に何があれば十分か。」わざわざ社会的な事柄に思考を費やすのなら、そんな風に考える方がまだ生産的なんではないかと思います。