2009年7月20日月曜日

アグリズム創刊イベントへ行ってみた。

ちょっと前なのですが、アグリズム創刊イベントに行ってきました。@銀座Apple Store
Apple Storeおされー。おされで売ってるな。
そして正直、僕が主催のゼミをすっぽかして行って来ました。

■新たなメディア批判。
編集長がおっしゃっていたのが、 こういうことをすると、「仕事を増やすな!」と批判をおっしゃる農家さんもいるそうです。
8割方が敵だとか… 新しいメディアが出てくると、叩かれるのは当然なので、まぁしゃあない。
けど、農業の現状打開のためにはこういう流れは必然だろうなぁ、と思います。
どうなんですかね?
参照→「社会的な身体~振る舞い・運動・お笑い・ゲーム」/荻上 チキ/講談社/090618

■立ち位置。
とか言っておきながら、僕は正直ガチ農業をやる気はありません。できません。
典型的な農的ライフに憧れてる一般ピーポーです。
でもフリーライダーは好かないので、将来的に形がどうであれ関わるのであれば、何かしら農業全般に還元できたらいいかなー、とは思います。
この定まらない感満々の文章。ダメだこりゃw

■ふろく。
まぁ、創刊号についてた手ぬぐいがかっこよかったって話ですよ、結論としては。

2009年7月19日日曜日

背中で語る社会学

を、ふと目に付いたので読み返してみた。
著者の過去の著書を総じてまとめてあるなぁ、と感じます。

この本はひたすらに絶望するしかない現実や〈歴史〉をつきつけ、
「それでも先へ踏み出せ。」と読者にメッセージを送っている気がします。
特に6章の「〈生〉と〈死〉」では顕著だと思う。
著者自体は、誰にも(社会に)承認されない死を受け入れ、世界の中で佇む死の必要性を訴える。
しかし、その絶望している著者が死にゆく母を目の前にして、母を出来うる限り承認して看取っている。
絶対的なまでの不公平で理不尽な現実に立ち向かうこと、「歴史に掉さす」ことを、「言葉」のみならず、「己の行動」で示す姿には「感染」せざるを得ない、だろうと思う。

ただ、正直14歳にはちょっと難しいかな~。
だからこそ、どんな年齢の人にも読み応えのある一冊だと思う。

2009年7月11日土曜日

ドボクな1日。

090709
首都圏外郭放水路へLDSE2008と3年前の造園学会のワークショップの同志5名と行ってきました。
池上くんは本当に久しぶり。
30分ほどレクチャーを聞き、いよいよ地下へ。
おおおおお!






僕はこの「人間が作ったのに人間のスケールに収まらない感」と「何も主張しない存在感」が非常に好きです。僕と同じ人間が作ったとは到底思えないのです。人間ってすごいな。

その後、みんなと大学に戻り、大山顕さんのスライドレクチャーを聞く。

質問の回答で大山さんは「ドボク〈工場や団地、ジャンクション、ダムなど機能性を重視した人口構造物〉が好きな人は恐らく過去から一定の割合で存在していた。ただ現代はそれがネットで顕在化しただけだ。これからも一定の数でドボク的なものに萌える人は一定するいるだろう。」との事。
でも、マーケットを広げる工夫はできるんじゃないかなぁ。それこそ情操教育レベルで…。
大山さんが未開拓分野のマーケットを開拓したノウハウが気になりました。

僕は「団地は写真撮影のノウハウが先で面白さに気付いたのか、元々団地が好きでノウハウを開発したのか」という質問をした。
大山さん曰く、後者だそうだ。団地の形態の差異(面白さ)を表現しようとすると、カタログのような撮り方になったとの事。
今回のスライドレクチャーのタイトルは「風景の発見」だったように、新たな風景の見方の「レンジ」を獲得することで、風景の可能性・資源性・有用性が広がると考えている。「レンジ」の獲得はある作法が先行する事で可能なのか、あるいは単純な嗜好か…。僕は前者に期待したい。「感覚のアーキテクチャ」的な感じがする。それできたら、すごいよなぁ。もう既にあるのかなぁ。
ああ、大山さんの街歩きワークショップ行きたかった…予定が…。

レクチャー後の懇親会では週2出勤となる石川さんも交えてスライドショー。
西千葉の甘太郎前の湾曲した道の起源を探るスライドを見せて頂いた。西千葉キャンパスの軸線のズレの理由は石川さんでも分からない、との事…。

とても刺激的な一日でした。

ー以下追記ー(地下パルテノンが「わかりやすい建築」との評価に対して@mixi)
専門的な話ウェルカムだよ。僕からはふりませんがw「ただ好き」なのは個人的な好みだからさw

それは恐らく、機能に特化する事の副次的メリットなのかな。「いわゆるドボク的な人口構造物(工場、ダム、団地、ジャンクション、水門など)は『洒落る余裕がないから』意匠性が皆無」by大山顕。ゆえに、その空間や構造物、表層の読み取り可能性が鑑賞者に広がる。例えば、折られた木の枝はそれで遊ぶ子供にとって「魔法のステッキ」にも、「正義の剣」にも、「物干し竿」にもなり得る。パルテノンって表現は実はここに行くような人の中ではある程度共有された言い回しで。多分これが開放された当初のある鑑賞者が「パルテノンみたい…」って言ったんだろうね。鑑賞者のイメージが投影し易い、って事で「わかりやすい」んだと思う。

今の世の中、風景の大半はイメージを鑑賞者に押し付けがち。看板なんてその最たるものだが、悲しいかな、マスコミを経由することで、作る側が良かれと思った建築が「お洒落建築」のレイベリングをされ、大して自然環境的に機能性を伴わない街路樹に「エコ」が投影される。

イメージ(意味)を鑑賞者に押し付けないからこそ、目の前の空間や形態に向き合い、自分なりの読み解き方ができる。もしかしたら、「意味を押し付けない」事こそが重要なのかも。ネット空間の過剰な情報に疲れるから、あえてパソコンから離れる選択があるように。

それが「地下パルテノン」の魅力なんじゃないのかな、と思いました。

2009年7月3日金曜日

設計/デザインを考える

090628
昼からLDSE2009のmtgに参加。
うれしいことに後輩が引き継いでくれるみたいです、LDSE

夕方、「設計/デザインを考える」を聞きに、青山ブックセンターへ。
藤村龍至さんと濱野智史さん。

建築系の藤村さんの「批判的工学主義」と「超線形設計プロセス論」のプレゼンを受け、濱野さんがその有効性についてweb系から評価していた(気がする)。何せ建築もwebも人文も専攻じゃないもんで。

二人の共通認識として、建築設計もwebデザインも方法論で共有できる知がある、というのがあるとの事だった。
濱野さんからはwebのプログラム設計方法の「アジャイル開発」と「超線形設計プロセス論」の類似性についての指摘があって、web系には今後「超線形設計プロセス論」の模型にあたるツールが必要だと述べていた。
藤村さんはそれこそプレゼンのタイトルは「Google的建築家像を目指して」であった。確かに「超線形設計プロセス論」を用いた設計者は、「ルールに従い」情報収集し設計活動を行うため、「ルールに従い」webサイトのURLを収集し体系化する検索エンジンのようである。

方法論を共有するのは、なんかよく分からないけど、良い事だと思っている。
環境は変化する毎に、多くのジャンルに何かしらの変化を求める。
環境の変化は同じであるから、ジャンル毎の変化に何かしら類似点は見つかるのではないか…。
生態学のアレンの法則、ベルクマンの法則みたいに。
ならば他のジャンルに学ぶべき点は多いだろう。

そして「アジャイル開発」と「超線形設計プロセス論」は話を聞く限りだと、生態学の「順応的管理」や環境ISO14001の「PDCAサイクル」にも非常に似ているとも思った。プロジェクト進行の中で不確実な要素を取り込む方法、反復すること、など。

そういった意味で建築家と生態学者とのコラボもありえるのかなー。そして「木が生える建築」問題に終止符が。
うーん、遠い先だな…