なんじゃないか。
人は自然に癒されるという。確かに、僕も自然を前にすると、ほっとする。誰もが経験する。
僕の専攻である造園の先生方々は、人が自然に癒されることを科学的に立証しようとしている。
庭を見た人の脳波を測ったりして。
ただ、「癒し」だけがわれわれが自然に惹かれる理由なのだろうか。ドボク(工場や団地、ジャンクション、水門、鉄塔、ダムなど機能性に特化した構造物)に心惹かれる僕や造園を学ぶ友人が、一見真逆の自然にも心惹かれるのは何故か?通底するメカニズムがありそうである。
水門萌えの佐藤淳一氏は「ドボクサミット」で、ドボクに萌える人が廃墟にも萌えることの理由として、
「多くのドボク・ファンは、用途や機能、あるいは背後の物語を排除し、解体され還元された形態や物質のあらわれ、だけに注目する見方をしているのではないだろうか。」(P176)
と述べている。
つまり、ドボクや廃墟の魅力の一つは外観の「意味のなさ」ということである。
そして、外観の「意味のなさ」は自然物も同様である。
自然物には記号性があんまりつけられない。
庭園の樹木は人為的に刈られるが、石組みは文化的な背景に基づいて組まれるが、看板のように文字が書かれる事はない。(むしろ庭園の美的価値=作者のメッセージを理解するには鑑賞者に知識や教養が必要である。)
風の音や葉音、波の音は単なる音であるし、小鳥のさえずりや動物の泣き声のメッセージ性は大半の人間は理解し得ない。
まして、森林や公園の樹木の一本一本に人為的なメッセージなど付加されようがない。
そこにあるのは、自然物の「存在」だけである。鑑賞者には何も意味を訴えない。
これは鑑賞者が勝手に意味を見出す事とは違う。
逆に言うと、ドボクも自然も鑑賞者個人によって勝手に意味を見出す事がしばしばある。
例えば、首都圏外郭放水路はその柱の形態から、「地下のパルテノン神殿」と呼ばれている。
木の枝は子供にとっては「魔法のステッキ」にも、「正義の剣」にも、「物干し竿」にもなり得る。
雲を見て動物やモノに喩えることは誰もがやったことがあるだろう。
これらは柱、団地、鉄塔、木の枝、雲の外観に意味がないからこそできるレイベリングである。
ある対象に意味を見出す度重なる行為や言説は、逆にその対象の「意味のなさ」をあぶりだしている。なんか、人生論に通じるものがある笑。
自然の「癒し性」は、「工業化の時代」に物理的非人間的環境の緩和や牧歌的風景ノスタルジーの補完の必要性があったからこそ、求められた価値であったのかもしれない。
人々に情報(=意味)を与え続ける「情報化の時代」の現代。実際にわれわれが自然に求めているのは、情報過多のカウンターとしての自然の「意味のなさ」という事はないだろうか。
工場鑑賞者が工場に萌えてるときの脳波を測っても面白いかもね。
